「知の編集術」

きっとどこかのウェブかブログで見つけていたのだろう、いつの間にかAmazonのカートに入っていて、なんとなく購入していた「知の編集術 (講談社現代新書)」という新書を読み終えた。

知の編集術 (講談社現代新書)

知の編集術 (講談社現代新書)

自分の場合、本を読みながら気になったところがあると、メモ帳に挟まっているペンで、本屋ではさんでもらった紙の栞に気になるページとか書き込むのだけど、この本の場合、あっという間に片面が埋まった。「気になるページ」=「いい言葉があるページ」とは限らなくて、「これはおかしいんじゃないのか?」というページもメモする。ちなみに今回はそのケースばかり・・。
まず言ってしまうと、この本から直接得られるものはほとんど無かった。むしろ、間違い探しの気分にしないと読めないぐらい、ちょっと酷い本だと思う。
この本は本当に「編集」されたのだろうか?一体何をどういう順番で読者に伝えようとしたのか?ただ、気の向くままに筆を走らせているというか、文章の意図がどんどんずれていく。著者のことは良く知らないのだが、「編集工学研究所所長」という肩書きが与えられている。読み進めるとだんだん「編集工学研究所」が怪しい団体に思えてきてしまった。
たまにいるビジョナリストに、話の風呂敷を広げっぱなし、という人がいる。どんどん話がドリフトしていき、聞いているほうは「あ、今話題が変わった」と意識していないととてもじゃないけどついていけないような人。そこから最初の話まで戻ってこれる人は頭がいいのだが、そうじゃない人だと困る。たぶん、松岡氏は後者なんだろう。ただ、それを本でやってはいけない。原稿は何度も読み返せるし、書きなおせるものなのだから。

定義すら

この人はきっと科学者にはなれない。それは、結局最後までこの本のタイトルにもなっている「編集」という言葉の定義すらしっかりできていないからだ。それが広い意味を持つ言葉であるとしても、それを含めた定義をすべきだ。それをしっかりしないうちから次のような文章が出てくる。

逆に一人遊びや二人遊びの体験を集団に拡張したいときもある。このときもきまって「情報化」と「編集化」をおこす。(p.55より)

しかし後半になって出てくる「六十四編集技法」(←これがすごく怪しいのだがそれは今はおいといて)の中には次のような項目がある。

10-情報群を意味単位に分節して編集する(p.159より)

つまり、「情報をまとめる」ことが「編集」の「技法」だといっているのに、その「編集」の状態にする「編集化」という言葉を「情報化」と並べて持ち出す時点で、著者の中で「編集」という日本語がめちゃくちゃであると分かるのである。

遊びの分類

第2章のタイトルは「編集は遊びから生まれる」とあり、この最初に子供の遊びを3分類している。

子供遊びの基本型は3つのパターンに分かれる。「ごっこ」型、「しりとり」型、「宝探し」型である。この基本型は情報の編集のしかたによって分かれている。

ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」を読んだ自分にとってはこの分類には違和感を感じる。とても全ての遊びを網羅できる分類ではないし、これに乗っかって考えたとしても「しりとり」と「宝探し」は同じ分類なのでは?と思う。(「ある情報を元に他の情報を得る」という点において。)
この強引な分類のあと、数ページすると、なんと著者がロジェ・カイヨワに会った自慢話になり、しかもロジェ・カイヨワの遊びの分類の説明までする。
その中では、この3つのパターンとの関連(共通点、相違点のどちらについても)については全く説明しない。一体何が言いたいのか分からない。

結局

万事が上記のような調子で語られ、最後までつかめないままの本である。むしろ最後の「編集指南・編集稽古」はもっと酷い。
「知の編集術」という壮大なタイトルから想像するほどには面白くない本である。何も体系立ってない。
期待した自分が間違いでした、という感じ。
雑誌のコラムなら許せたかもしれない。

追記

本書内には変な言葉が多い。それを最初はメモしていたのだけど、途中からやめた。そんな時間が勿体ないから。
ちょっと検索したら同じように感じた人がいるみたい。そうだよね。

第二章まで読んで、正直、お腹が一杯という気分だった。第三章以降はそれなりに教えられるところもあるのだけれど、疑問に思うことも多い。「編集術」とやらは後日追追抽出・整理してまとめてみよう。しないかも知れないが。自分なりに編集とは何か把めた気がしたことは満足。この本には全然満足できないが。

http://d.hatena.ne.jp/hiwamatanoboru/20070327#p2

全く同感でした!