「有限と微小のパン」

「四季」シリーズやVシリーズを読み始めながら、ふと気づいて自分の過去の日記を検索したら、S&Mシリーズを全て読んだとばかり思っていたら、どうやらS&Mシリーズ最後の「有限と微小のパン (講談社文庫)」を読んでいないことに気づいた。確かに内容は思い出せないし。早速本屋に行き購入。

いやー、前から厚いとは思ってたけど、実際手にするとやっぱり厚い。約860ページですか。文庫本1冊で1000円オーバーはおそらく始めて。分冊されなかっただけいいのかな?とかいろいろな思いもありつつ、仕事の合間に読み始めて2週間、ようやく読了しました。

有限と微小のパン (講談社文庫)

有限と微小のパン (講談社文庫)

「四季」シリーズとVシリーズばかり読んでいたからかもしれないけど、いやー、おもしろい!さすが「すべてがFになる (講談社文庫)」ではじまったS&Mシリーズの最終作品、そのページ数とか全く苦になりませんでしたよ。仕事してなかったら1日で読みきったかもなぁ。
しかし、8章あたりの展開には、まさかと思ったが、うーん、森氏にうまく言いくるめられてしまった感が抜けない。と読んでいたのだが、9章から後の話の流れ、会話がなんだか心地よくて、つまりは、終わりよければ全てよし、なのではないのだろうか、といい気分になってしまった。
登場人物は、他のシリーズに比べてやっぱり魅力的。で、その反動というか、これ以上同じ組み合わせで書くことも難しくなってきたことも見えてくる。そうすると、やっぱりVシリーズみたいなつくりになるんだろうね。
「あぁー、THE PERFECT OUTSIDERだー」と思った次の文章を読むと、たまに頭をよぎる思考をもうちょっと留めさせて熟成させてもいいかな、と思った。

どうして、場所を限定しなくちゃいけない?意識が存在する場所を限定しようとする行為が、意識を物質化している。それは間違いだ。(p.646より)

ただ、間違いと言い切るのもどうかと思う。その間違いの積み重ね、というか、間違いの澱が結晶して出来たのが今の科学でもあると思うから。
以下はネタバレ気味の思考メモ。

十一時六分

例によって、この作品でも素数や孤独な数字7の倍数の数字がバラバラとちりばめられているが、次の文章は一瞬戸惑った。

ベッドに挟まれたサイドテーブルにアルデジタル時計が、十一時六分を表示している。七の倍数だ、と思いながら、萌絵は、一人掛けの椅子に腰を下ろす。(p.598より)

あれ?どこか7の倍数?と、気づいた瞬間、自分の頭の処理速度がどんどん低下していることを認識しましたよ。

最新

この本が刊行されたのは20世紀で、10年近く前。当時とコンピュータ周りや技術の事情は結構変わってきているので、いくつか気になるところがあった。
特に気になったのが、犀川たちがネットカフェなどでメーラーを使うときの独り言とか。ユードラって、、。犀川なら直接メールサーバにアクセスして読むプログラムを書いて、それを使って読みそうな気もするけど、まぁ、彼はプログラマではないのかな。今のようにgmailとか使ってしまうと、そういうところが気になるねぇ。
そして、レッドマジックやデボラで使われていた技術が最先端かどうかとかやっぱり気になる。configファイルを書き換え、エラーを起こして再起動させる、とか、エラーを起こしたら再起動とか、そんなシステムを四季がつくるかなー、と思ってしまった。まぁ、それが本当に堅牢なしすてむだったらいろいろ人を動かせないから、そこはさらに一段上からの視点で見れば不思議はないのかもしれない。

タイトルについて

これは想像なのだが、本作のタイトルの中の「パン」とは、きっと食べる「パン」のことではない。最後の一文もあるので、もちろんそれもかけているとは思うけど、この「パン」は英語表記で"pan"であるはずなのだ。それは、まぁ、ちょっと深読みというか、panoramicに読めば分かる。
有限で微小な(カメラの)panであり、有限で微小なpan(なエリア)であり、つまりそんな有限と微小が入り混じったpanであるのではないだろうか。
ここまで考えたらようやくスッキリした。
さて、これでGシリーズを読み始めてもいいのかな?Vシリーズ読んでないけど。