「声の網」

どこかで誰かの話の中で出てきた「声の網」、amazonでカートに入れっぱなしにしていて、何かのついでに買って積ん読状態だったモノを読み終えました。

声の網 (角川文庫)

声の網 (角川文庫)

そこには「ボッコちゃん」とはかなり違う印象の世界が広がっていた。

1970年

本作品が書かれた1970年がどんな年だったのか、Wikipediaで紐解いてみた。
wikipedia:1970年

本書が書かれたのは、そんな時代である。ちなみに、私もまだ産まれていない。
そこに書かれている未来は、電話が発達した未来。しかし、内容からすると現在のインターネットに相当するものである。さらにその技術に依存した生活に潜む暗闇が生み出すモノを描いており、その先見性には驚くばかりだ。
本当に秀逸なSF作品。

科学は進んでも

科学はどんなに進んでも、人間の本質はほとんど何も変わらない、と星新一は予測しているのか、そこに出てくる登場人物の抱く感情、行動する内容には全く違和感がない。
実際そうかもしれない。
コンピュータが進化し、インターネットが整備され、情報処理技術がどんどん進んできても、人間には人間という制限がある。
本書を読みながらそんなことを考えていると、その制限を抜け出すべきだ、ではなく、その制限をまず認識すべきだ、と思えてきた。

「そう、あなたの考えているとおりだ」

そんな声が聞こえる気がする

その声は、星新一の声かもしれない。

「1984年」

動物農場」と同時に購入していた、ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだ。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

動物農場」につづけて彼の作品を読んだわけだが、基本的な政治批判の考えは変わっていない。こちらの方が、分量的にも思想的にも大作だが、読んでおくべき本の一つだ。

1984年、オセアニア

世界には、オセアニアと、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国しかないという1984年の話。全体主義国家であるオセアニアを、真理省の役人として生活しているウィンストン目線で書いたものである。
その国家の様子を描写しつつ、ウィンストンの心理の変化や葛藤を丁寧に描いている。世界観がかなりしっかりと構成されているので、読んでいて違和感はない。
1949年の本であり、そのころの時代背景(第2次世界大戦はもちろんのこと、ナチスドイツ、スペイン内乱など)を把握しておかないと、なぜこのような話を書いているか、とか理解に苦しむかもしれない。
私自身そんなに歴史を知っているわけではないのだが、本書を読んだあと、その頃の時代を知りたくなったことは事実だ。
政治批判、諷刺を行う本書のような本の読み方としては逆かもしれないが、そのようなことになってくるのは、本が書かれてから時間がたてばしょうがないだろう。その過程で、名著となったり、名著ではなくなったり、本自体の立ち位置も変わってくるのだから。

ゆるめの中盤

1984年」は淡々とした生活をするしかない世界での話なので、アクション映画のような展開は望めないのは分かるが、それでも中盤のゴールドスタインの本を読む下りはちょっと厳しい。
ウィンストンではないのだが、別に新しく知る点が何もないのだ。ただ、まとめられている、それだけだ。
巻末に載っている訳者(新庄哲夫)による解説によると、オーウェルは病を患っており、永眠する直前に本書を書き上げている。そのため、9ヶ月執筆が中断していたので、「二分されたような印象をあたえる」と書いている。
それはおそらくこのあたりではないだろうか。

ニュースピークと邦訳

本書の中で際だった演出の一つが「ニュースピーク」というオセアニアで使われはじめている新語である。
既存の英語をベースにし、政治批判的な思想をもとから絶つために言語を変えていく、というシステムだ。例えば、ウィンストンが働いている「真理省(ミニストリ・オブ・トゥルー "Ministry of True")」は「ミニトゥルー "Minitrue"」となるのだ。
本書の巻末に「付録 ニュースピークの諸原理」というのがあり、本編を読み終えたあとに読むとニュースピークの裏側にあるいろいろな思想が見えてきて面白い。
「言葉を減らすことで思想を減らす」、「言葉をくっつけることで余計な思考を減らす」、という考え方は自分にとって新鮮であり、言葉と思考のつながりの強さについて恐怖すら抱く。
このようにニュースピークというのは本作において最大の発明であると思うのだが、これをどのように訳すのか?というのはかなり技量がいることは想像に難くない。
このニュースピークも含めて、本書の訳については少々疑問が残った。私が読んだ本は1972年の発行であり、30年以上も前のものだが、訳の例として、"Big Brother" を "偉大な兄弟" と訳している。しかし、"偉大な兄弟"では明らかに違和感があるので、頭の中では常に「ビッグブラザー」と読んでいた。また「勝利マンション」「勝利ジン」もちょっと納得いかない。今なら「ビクトリーマンション」「ビクトリージン」でいいではないだろうか。
固有名詞は割とそのままの新訳を出してほしいところです。

ネットで読む

と言うようなことを考えてつつあれこれ検索していたら、山形浩生氏による訳もPDFで公開されていることを知った。まだ、完成はしていないようです。

これは「ビッグブラザー」と表記している。しかし、最初のニュースピーク説明のところは次のように書かれている。

真理省、これはニュース、娯楽、教育、芸術を担当する。平和省は戦争を担当している。愛情省は法と秩序を維持した。そして豊富省は経済関連を担当していた。これらをニュースピークで言うと、シショウ、ヘイショウ、アイショウ、ホウショウだ。

うーん、、ちょっとがっかり。せめて注として英語を併記しておいて欲しいところ。
また、英語版のテキストも見つかったので、誰か、新訳をお願い。

「動物農場」

ジョージ・オーウェルの作品を読むのは初めて。ある友人と話をしていて「1984年」とかの話になり、タイトルは知っているけど、読んだこと無いなぁ、とamazonで購入してみました。

動物農場 (角川文庫)

動物農場 (角川文庫)

タイトル作品「動物農場」の他に「象を射つ」「絞首刑」「貧しいものの最期」の3つの短編がおさめられている。
ジョージ・オーウェルといえば「1984年」が有名だが、同時にこの「動物農場」も購入し、執筆された時期がこちらの方が先らしいので、こちらから読んでみたのです。

動物農場

いやー、面白かった。これを読んだことがある友人と話をしてて、私は勝手に「猿の惑星」的なものを考えていたのですが、かなり違っていて、もっと寓話的なつくり。しかも政治批判、社会批判を含むエッジの効いた内容で、本当に楽しめた。
一言で言うならどういう風に言えばいいのだろう?と考えて他のだが、開高健が書いている解説が載せられており、そこに本書に関して適切な説明文があるので引用してみたい。

動物農場』は独裁と全体主義を、革命の堕落を、人格と個性の面から解剖し、分析し、発展をたどった作品である

ジョージ・オーウェルという人物を知る

購入したのは角川文庫出版、高畠文夫訳のものだが、本編の他にも短編や解説が収録されており、150ページの本編に対して、20ページ弱の短編が3つ、開高健の解説が10ページ、さらに役者による解説があり、それが約60ページもある。
1冊の中の分量として、この解説の多さに読む前は一体どういうことなのだろう?と思っていた。しかし、本編を読み、短編の小説というかエッセイ的な話を3つ読むと、これらの話が書かれてた時代と、ジョージ・オーウェルの人物にとても興味がわいてくる。その流れに入ると、この解説の分量はとても適切で、「1984年」を読む前に本書を読んだことをラッキーに思えてくるのだ。
内容としても「1984年」は「動物農場」の流れの続きで書かれているらしいので、とても期待できる。
また解説を読むうちに「社会主義」と「共産主義」の違いを理解していない自分に気づき、ちょっと政治学とかそういうところも勉強してみたい気になってきた。そして、政治学とは?各種主義の問題点とは?ということを考えるのに角川文庫出版の本書はとてもよい教材となりうると思うのです。

「ちょっとだけ」

ふと思い出したので、ある絵本を紹介しておきます。

ちょっとだけ (こどものとも絵本)

ちょっとだけ (こどものとも絵本)

実はこの本は未購入なのですが、本屋の絵本コーナーで何となく手に取り、立ち読みしたら、涙をこらえるのに必死になってしまう内容だった。
大人でも、この絵本を読むことで、忘れていた大事な気持ちがよみがえってくるのではないでしょうか。

もし自分の娘に下の子が出来たら、是非買ってあげようと思っています。

「ヴァニシングポイント」

「ガン漂流」シリーズの奥山氏が死を目前に書き上げた小説、ということで、「ガン漂流」シリーズ中でも執筆の様子を少し書いている本書を読み終えました。

ヴァニシングポイント

ヴァニシングポイント

なんだか

正直、ガン漂流の方がよかった。
本書でも書かれているが、トレインスポッティングのような話が中心。それを自伝でサンドイッチした感じで、フィクションとノンフィクションの混ざり具合が微妙。結局それがどういう意味を持っているのかが納得しがたく、腑に落ちない感じ。読む前に、勝手に、完全なフィクションか何かを書いてたのかと思ってたので、そういう乾燥になってしまうのかもしれない。
とはいえ、最後の2割ぐらいは面白かった。
正直、次の作品を読んでみたいところだが、それは永遠にかなわない話。ヴァニシングポイントの向こう側に行けば読めるのだろうか。

「33歳ガン漂流 LAST EXIT」

奥山貴宏氏のガン漂流シリーズ3冊目、2日で一気に読み終えてしまった。

33歳ガン漂流ラスト・イグジット

33歳ガン漂流ラスト・イグジット

奥山氏は2005年4月17日に亡くなられました。
ということで、前2作とは違い、この本は奥山氏の意志とは別に、遺族と出版社の意志で出版されている。しかしながら奥山氏が書いていたblogとウェブの日記と、コラムを使っているので、それほど前作と違和感が無く読めました。

死を前にして

一貫して奥山節は基本的に変わらずなのですが、4月に入るとblogが途切れ途切れになり、最期のblogとなる文章はとても弱くなってきていて、胸が詰まる思いになる。今までそういう気持ちを一切表に出していなかった分だけ、最期の弱さに涙腺を刺激される。
本書を読んでいる時点で奥山氏が4月に亡くなることは読者には分かっているわけだが、本人はもちろん分からないハズ(死ぬということは分かっていてっもその日付までは分からない)。死の3ヶ月前になる1月19日にお母さんが家に掃除に来てくれて帰るときの様子に、死を予感している感情が書かれている。

タクシーで家に戻る。サ母が最後まで見送ってくれる。タクシーの中から手を振る。この人に平穏な日々が訪れるのは、オレが灰になった後だということを考えると少しだけ涙が出てきた。

サ母

奥山氏の日記の中では、お母さんのことを「サイボーグ母」、略して「サ母」と書かれているのだが、このお母さんの存在がとても大きいなぁ、とこれまでの日記を読めば誰でも思うだろう。しかし、このサ母に関して、奥山氏の父が書いた本書末の「謝辞」で、ある事実が分かる。実際ミステリー作品であるわけでもないので書いてしまうが、サ母は生みの母ではない、ということなのだ。サ母の献身的なサポートを読んできた者として、驚くべき事実。深く考えさせられます。
そんなサ母が奥山氏の死後、コメントをblogに載せており、それも本書に載っている。
これがとても素晴らしく愛に満ちた文章なので、最後の文章を引用してみたい。

貴宏はたくさんの仕事を残してくれました。サ母はインプットされた任務の遂行を当分続けていかなければならないようです。それが全て完了した時に、悲しみはどっとやってくるのでしょうか。
 サイボーグ母こと、奥山貴宏母より

食欲

ガン漂流シリーズでは奥山氏がいろいろな店に行っていることが書かれている。自分の家とも近いので、書かれていた店の中で行ったことない店とか今度行ってみたいと思い、ピックアップしてみた。

書いているだけでおなかがすいてくる。彼の代わりというわけではないのだが、ある意味命をかけて紹介しているこれらの店、時間を見つけて回ってみたい。

VP

彼の死の3日前に、初めての小説「ヴァニッシング・ポイント」が出版されている。このタイトルは彼の音楽の嗜好からもPRIMAL SCREAMのアルバム名からとったことは明白。本書も本棚にあるので続けて読んでみたいと思います。

ヴァニシングポイント

ヴァニシングポイント

「32歳ガン漂流 Evolution」

さくっと2冊目を読了。

32歳ガン漂流 エヴォリューション

32歳ガン漂流 エヴォリューション

読みやすいつくりなので、無駄に引っかかるところがない。そんな中でも書かれている内容は基本的にシリアスな病気がベースなので、ときどきこころに刺さる言葉がある。
2004年4月29日の日記から引用してみると次のような文章があったりする。

とりあえず、オレは今生きている。そんだけ。それ以上でもそれ以下でもない

ただもくもくと「生きている」ということだ。
普段あまり深く考えずにいろいろ行動している自分としては何か、考え残しているのではないのかと思わざるを得ない。
また、あとがきでも次のように書かれている。

でも、諦めないどころか、死ぬまで最期の血の一滴までやりつづけようと思っていることがある。それは、文章を書くということだ。

自分の場合、この言葉として一体何が言えるだろうか。
まだ何も断言できない。