「人形式モナリザ」

久しぶりに技術書以外の読書をした。
ふらっと入った本屋で衝動買いした森博嗣の「人形式モナリザ」です。

人形式モナリザ Shape of Things Human (講談社文庫)

人形式モナリザ Shape of Things Human (講談社文庫)

森博嗣氏の作品を読むことも久しぶり。(「カクレカラクリ」は除いておきたい。)
「S&Mシリーズ」の後の「Vシリーズ」である前作「黒猫の三角」以来である。
で、この作品が、Vシリーズ2作目。
「黒猫の…」を読んで思っていたことがあって、それはシリーズをはじめるにあたって、かなり登場人物が多く、人間関係を把握することが難しいということだ。
それは「人形式…」でもやはり同じで、今回はさらにターゲットとなる家系の把握が難しい。
おそらく著者も分かっているようで、何度も何度も同じように「誰それの母であり、誰それの娘であるところの何某」みたいな書き方が多い。
決して家系の複雑さ、人間関係の複雑さは本質ではないはずだから、それを何度も繰り返している時点で無駄に複雑であると思うのだ。
あまりに複雑で把握しきれないから、本屋で買ったときにかけてもらった紙のブックカバーの裏表紙側に、持っていたボールペンで家系図を書いてしまいましたけど、割と役にたちました。

氏のblogによると、このVシリーズではすでに本を薄くしていきたい、という意思があったらしいが、もうちょっと人間関係を考えれば、まだ薄くなる気がするのは私だけだろうか。
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/02/post_981.php
おそらく岩崎家という大きな家系を見せてしまったがために、複雑になってしまったのだと思う。
本当にその血縁は必要だったのか?
と、あらゆる関係に対して思えば、結局この物語で語られる内容としても、血縁であることはそれほど重要でないように思える。

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ミステリとしての奇妙さはやはり森博嗣特有の空気感を楽しめるし、それは後半になればなるほど強く感じられる。
シリーズが好きな人は読めば楽しめると思うが、前作でダメだった人はダメかもしれない。そんな作品。
良くも悪くも、前作との変化の度合いが一定。
人間は、ある状態に慣れると、その状態の変化の1回微分の変化を求めてしまう。
静止状態に飽きたら、位置の変化である移動。その次は、移動の変化状態である速度の変化を。(ちなみに、現在のジェットコースターはこの限界に行き詰っているように思える。)
これが作品を作り続けるということの難しさなのかもしれない。

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ところで、最近、あるエンターテイメントらしきものを見て考えていたことがある。なぜこれはおもしろくて、あれはつまらないのだろうか、ということを。もしくはその逆を。それに対する回答は自分の中でなんとなくできていたのだが、この本の中(p118)に明快な答えがあった。
最後にそれを引用させてもらう。

あらゆる舞台芸術は、歌謡、舞踊、演劇など、数々の芸や、各種の技を隠れ蓑として、実は、人間そのものを見せている。それが基本である。見世物小屋でも、ストリップ劇場でも、この点は同じだ。現代ではテレビがこれに当たる。ただ、直接か間接か、近いか遠いか、換言すれば、下品か上品か、の差異があるだけのこと。東洋でも西洋でも、この基本は変わらない。オペラやバレエも同様。長い歴史の中で、いつの間にか、その隠れ蓑としての芸や技、あるいは道具が独り歩きし始め、数々の伝統が作られる。そして同時に、本来の魅力、人間を見せるという機能を、しだいに失っていくのであろう。

そう。それが基本である。